ママ、おしごといかないで

木全彩花/2025年6月23日

「ママ、おしごといかないで」

ある朝、玄関で靴を履きながら、息子がぽつんとつぶやいた。
泣くわけでもなく、怒るでもなく、ほんとうにただ、
小さいおにぎりがころんと転がったような言葉だった。

私は少しだけ胸がキュッとなって、
「うん、そういう日もあるよね」と返した。

いつもはドクターイエローの靴を履いて「いってきまーす!」と元気で言いながら
手をつなぐ彼だが、
今日はなかなか靴を履こうとしない。
その小さな背中は、少しだけ私を試しているようにも見えた。

仕事に遅れる、時間が迫っている。

でも、急かすのはやめて、私はしゃがんで目線を合わせた。
「ママもほんとは一緒にいたいな、夕方迎えにいくから、いまぎゅうってしてもいい?」
「うん、いいよ。ママおしごとがんばったら、いっしょにおうち、かえってくる?」
「もちろん。一緒にただいまってしよう」

そのやりとりだけで、ほんの少し空気がやわらかくなる。

息子が「ママ、おしごといかないで」と言う日は、
きっと私の“心のこえ”も同じことを言っている。

今日は一緒にいたい。今日は仕事に行きたくない。
大人も子どもも、そんな日はある。

それでも私たちは、
いつものように手を振って「いってきます」と「いってらっしゃい」を交わす。

この一瞬のやりとりの中に、
たくさんの愛と、少しの葛藤が詰まっている。

ぎゅっと抱きしめたあと、彼はおもむろに靴を履きながら、
「ママがえきいんさんね。ぼくはしゅっぱつのひと!」

そう言って手をつないで、小さな駅長さんは玄関のドアを開けた。
その声は、息子が大好きな貨物列車みたいに、眠たい朝の空気をかきわけていった。

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木全彩花
フリーの取材ライター、普段は採用広報記事や人物インタビューを書いています。
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